立ち読み

ラスト・イニング

著者:あさのあつこ

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 湿った風が吹きつけてくる。南からだ。この風の吹いてくる方向に、新田市営球場はあった。そこが風の源であるわけもないのに、鼻腔をくすぐる空気には、野球が様々に纏う匂いが濃く漂っている。例えば舞い立つ砂塵の、例えばマウンドに降り注ぐ陽光の、例えば握り締めた白球の匂いが確かに感じられる。  野球の試合が待っている。  巧は、息の詰まるような昂りと自分が限りなく広がっていくような解放感を同時に覚えていた。  自転車を止め、深呼吸をしてみる。風が気道を滑り、胸の中で渦を巻く。ほとんど無意識にウィンドブレーカーのポケットに手を入れていた。何もない。今朝、ここに突っ込んだボールは、さっき弟に手渡していた。  もう一度深く、息を吸う。目の前は緩やかな下り坂になっている。ここを下り、その勢いのままにペダルをこげば、市営球場はすぐだ。  野球の試合が待っている。  鼓動が速まる。南風に向かい顔を上げ、ペダルを踏み込む。 「原田、原田、た・く・みく〜ん」  グラウンドに一歩を踏み出したとたん、妙な抑揚をつけて名前を呼ばれた。吉貞伸弘が両手を広げて、近付いてくる。 「おっはよう。グッドモーニング。今日のごきげん、いかが〜かな? ちゃんと朝飯、食ってきたか? 顔は洗って、歯も磨いたか?」 「大きなお世話だよ」 「あらまっ、いつにも増して愛想のないこと。何、何、な〜に。キンチョーしとるんかい。やだやだやだ、練習試合ぐらいでキンチョーしてやんの。もっ、巧くんたら、可愛いんだから」 「おまえな、朝からおれに喧嘩売ってるわけ」 「まさか、まさか、おれ、非暴力主義だもん。暴力反対。ほらほら、巧くん、もっと力抜いて。楽にいこうね」  吉貞の両手が肩に乗る。 「そうじゃ、思いっ切り抱き締めたろか? 緊張、ほぐれるよ。なんだったら、特別サービス、ほっぺにチュッ。嬉しいだろう、原田」 「吉貞……三つ数える内に手を離せ。でないと、思いっ切りぶん殴るからな」  吉貞は唇を尖らせ、両手をひらひらと振ってみせた。 「なんじゃ。ほんま、ユーモアの精神がないやっちゃな。そんなにゆとりがなくて、だいじょうぶなんか?」 「何が?」 「試合に決まっとろうが。他に何の心配をするんじゃ。おまえ、先発だよ。ピッチャーだよ。大切だよ。おまえがガタガタしてたら、負けちゃうよ。わかってる? いやいや、ええかよく聞けよ。一度、おまえに先発ピッチャーの心得ってもんについて教えとこうと思うてたんじゃ。一度じゃぞ、一度しか言わんけん、ちゃんと聞けよ」  吉貞に背を向けて、グラウンドに向かう。試合前の練習が始まろうとしていた。取り留めのない饒舌に付き合っている時間も気持ちもなかった。 「あーっ、原田、無視すんなや」  吉貞が横に並ぶ。その口調がふいに変化した。低く、僅かに掠れて聞き取り難い。 「けっこう、迫力あるじゃねえか」  巧は足を止め、吉貞を見下ろした。ソバカスの浮いた顔を心持ち上げ、吉貞は巧の視線を受け止める。それから、三塁側ダッグアウトに向かって顎をしゃくった。無言のままだった。  相手チーム、横手二中の選手達が到着していた。すでに、キャッチボールや柔軟体操を始めている者もいる。大半は、卒業した三年生達だった。 「この前と同じ、ピッチャーを除いて、全国大会ベスト4のベストメンバーじゃな」 「みたいだな」 「半年前の試合と同じメンバー。じゃけど、かなり違う」 「確かに」  巧は、横手のベンチから吉貞へと視線を戻した。  こいつ、ちゃんと見通してるってわけか。  上調子で饒舌でやたら騒がしいやつだが、見るべきものはちゃんと見ている。軽率で単純で陽気な少年、そんな吉貞の表皮をべりべりと剥せば、存外に鋭い観察眼と思索力の持ち主が現れる。むろん、とっくに気が付いていた。 「締まっとるよな」  下唇をゆっくりと舐めて、吉貞は息を吐き出した。  そのとおりだ。絞り込まれている。選手一人一人の肉体も、チーム全体も。余分なものを削ぎ落とした緩みのない空気が伝わってくる。それは、緊張と呼ぶにはやや異質の硬さだった。決して負けないという自信と、必ず勝つという決意と、全力で向かっていくという真剣さが綯い交ぜになって硬く張り詰めた雰囲気を作る。半年前には、感じられなかったものだ。 「監督が言うてたよな。今度は本気で全力でくるぞって。ばっちり当たったみたいじゃぞ」  巧は黙っていた。目の前を白い花びらが一枚、風に乗って流れていく。  今度は本気で全力でくる。  それはこちらも同じ。緩むことなく、崩れることなく、投げ切るだけだ。  投げ切ってみせる。  過剰な気負いも、重圧も感じなかった。昂りは消え、身体の奥底から柔らかく歓喜の情が立ち上る。  全国屈指と称せられた横手の打線を相手にできる。そして……。  巧は視線を巡らせてみる。豪は、すでにレガースを付けバックネットの傍らに立っていた。海音寺と何か話し込んでいる。脇にミットを挟んでいた。胸の中でどくりと一つ、鼓動が起こる。  あのミット、あの打線と対峙してマウンドに立つことができるのだ。これから手にする時間の、何と贅沢で蠱惑的なことか。 「門脇さんが……」  ぼそりと吉貞が囁いた。 「うん?」 「やけに、静かじゃな」